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真の人材育成とは

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真の人材育成とは、育てるのではなく、共に育つことである。
真に人に教えを与えられるのは「共に学ぶ人」だけである。
真に人を導くことができるのは「共に歩む人」だけである。
自他共に学び歩むことが自分も育て、人も育て、導き導かれる唯一の育成の道である。

自らが育つことを忘れ、育てることにとらわれては、己の成長が止まる。
人に教えようとした瞬間、その者の学びは止まる。
人を導こうとした瞬間、その者の歩みは止まる。
共に学び、共に歩む姿勢こそが、自らの学びと歩みを進め、人に学びを与え、人を導くのである。

止まった者は輝きを失う。魅力を感じなくなる。
「この人から学びたい」「この人について行きたい」と思わなくなる。
どんなに知識や名誉があっても、それを威張ったり誇示している人間に人はついていかない。
そういう者に限って、王様気取りで世界を見下ろしているかのように勘違いしがちだが、
その見下ろす世界が実は床の鏡に映った世界で、本当は自分が見下ろされているのに気がついていない。
己の弱さに支配され、周囲にそれを見透かされ、裸の王様になっている場合が多いわけだ。

共に学び歩もうとする者は、人を惹きつけ、人を活かし、活かされる。
本物のリーダーは理屈より熱意、己の心で語り、そして口より行動、己の背中で語る。
その姿に、その背中に引っ張られ、志一つに一枚岩となって組織と化す。
それが真のリーダーのあるべき姿、真の組織のあるべき姿ではなかろうか。

わたしは人や社会の成長において、最も重要なのは自分磨きの精神であると考える。
教育や仕事においても、「なぜやるのか?」という原点や初心を理解しないまま、
いきなり教科や技術を教え込まれても、なかなか身につかないものだ。
何事も「なぜ?」がわからないまま、なんとなく惰性でやっていたら人生そのものもそうなってしまう。

まずはなぜ学ぶのか?何のためにやっているのか?
そういった原点となる初心をはっきりさせることが何よりも大切だとわたしは思う。
それが学びたい、働きたい、という意欲や熱意につながり、
やらされるのではなく、自らやろうという志を持つことにつながる。
そうやって個々が自分磨きの精神を持つことが全ての始まりだと考える。
まず第一にこの意識を持つことが、教科や技術を身につける上でも一番の近道となるはずだ。

教育においては、親子それぞれが、教師と生徒それぞれが、
仕事においては、経営者、上司、部下、それぞれが自分磨きの精神を持ち、
明確な目的を持って自らの成長に目を向けることが、周りの成長にも直結するのである。
自分が成長すれば周りも成長する。周りが成長すれば自分も成長する。
逆に自分が止まれば周りも止まる。しかし、周りが止まっても自分は止まってはいけない。

「誰かがやるだろう」ではなく、「俺がやらなきゃ誰がやる」という志を持つこと。
一人一人がそういう意識を持っていれば、誰も止まることはないのではなかろうか。
そうやって一人一人が明確な意志を持って行動することで、
「おれがやる!わたしがやる!じゃあ一緒にやろう!」と、そこではじめて団結力が生まれるわけだ。
それが集団の中で学びと歩みを最速かつ、最大限に引き上げる唯一の方法だとわたしは考える。
個々が己の目的と責任のもと、志を持って自分磨きに取り組むことが何よりも大切なことではなかろうか。

周りが止まっているから自分も止まろう。そうやって皆が止まってしまえば、
歩もうとする者の足の引っ張り合いをし、皆一緒に堕ちていくばかりだ。
「出る杭は打たれる」とはよく言うが、果たして杭を打っているのは誰だろうか?
私利私欲や傲慢に溺れ、自分より前に出ようとする人間が気に入らない者か?
希望や目的を見失い、立ち止まっている自分を正当化するために走っている人間を叩く者か?
止まっている者同士で不毛な争いをするような最悪の事態だけは避けたい次第である。


一人一人の志が世を動かす

今日、わたしたちの暮らす社会はあらゆる問題を抱えている。
その問題を解決するためにあらゆる議論を交わし、制度や方針を考えたりしている。
もちろんそれも大事なことである。
しかし、最も大事なことが後回しになっていないかとわたしは思うわけだ。
周りや世間を見る前にまず自分自身に目を向けるべきではなかろうか。

制度や方針によって人々の暮らしを豊かにしようとする前に、
その根本となる一人一人の心が豊かになれば、
個々が己の私利私欲や邪念を振り払い、誠の心を取り戻せば、
必然的に誠の志が収束していき、制度や方針も良い方向へと変わっていくのではないかと思うわけだ。
その順番が逆になっているから本当に大切なものを見失い、
誰かの私利私欲や邪念に振り回されて意見が一致せず、議論が堂々巡りとなり、
その折り合いを取るために歪んだ結論に至り、社会は歪んでいるのではなかろうか。

わたしには国や企業の制度や方針を変えることはできない。
しかし、このサイトを見てくれている方々の心を動かすことはできるかもしれない。
どれだけの人が共感してくれるかわからないし、
何が正しいのか、間違っているのかなんて誰にもわからない。
大切なのは何が正しいか、という口先だけの議論ではなく、
自分が正しいと思うことをする、という一人一人の意志と行動ではなかろうか。

評論家気取りでいくら正論を振りかざしても行動しなければ何も変わらない。
己が正しいと思う誠の志を、己の言葉と行動で体現することに意味があるとわたしは思う。
そうやって一人一人の誠の志が一致し、異体同心して大きくなれば、
一人ではできないようなことでも、それが集結して誠の組織力となり、
その中で一人一人が自分にできること、己の成すべきことを成すことで、
個性を活かしながら大きな力を生み、誠の大義を成すことができるのではなかろうか。


教わると学ぶの違い

「教わる」と「学ぶ」は似ているが、両者には大きく異なる点がある。
それは、自立しているか否かである。

教わる人というのは、教えてくれる人がいないと学ぶことができない。
周りが教えてくれれば学ぶことができるが、
教えてくれる人がいなくなった途端、自分一人では何をしたら良いのかわからず、
自発的に学ぶことができずに止まってしまう。

理解できないことがあると、「難しくてよくわからないや」で終わらせてしまい、
理解できたことでも、なぜそうなるのか?という原点までは深く掘り下げず、
根本的な意味や因果までは理解できていない場合が多い。
根本の原理を理解していないということは、結局は「わかったつもり」で終わっているということだ。

このようなタイプの人は、人にものを教える時も自分の言葉で語ることができず、
他人の言葉や本など、外部に頼らないと語ることができない場合が多い。
自ら学ぼうとする姿勢、自ら原因を追究する姿勢がないため、
何かできないことがあると「教えてもらってないから」とか「わからないから」とか、
誰かのせいにしたり言い訳をし、原因や解決策を自分の中に見出そうとしない。
要は受身的なタイプで、外部に依存し、内面的に成長できておらず、自立できていないわけだ。

学ぶ人というのは、自分に必要なことを学ばせてくれる人や組織を自ら求め歩き、
教えてもらうのではなく、自ら学ぶ姿勢で取り組むため、
教えてくれる人がいようがいまいが、己の意志で学びを求めたり人の背中を見て勝手に学ぶ。
自発的に学ぶことができるため、日々成長する。

理解できないことがあると、「なぜそうなるのか?」という理由を問い、
その根本の原理を深く掘り下げてはっきりさせることで理解に至る。
根本的な原理がわかっていれば、あらゆる状況に応用して対応することができる。
難しくてよくわからないことというのは、必ず原点や初心に答えがあるものだ。
「迷ったら初心に帰れ」とよく言うが、これは究極の基本であろう。

そうやって根本的な意味や因果を理解することで、
学んだことを自分のものとしてしっかりと身につけ、
人にものを教える時も自分の言葉でしっかりと、
しかもその人に応じてわかりやすいように言葉や教え方を変えながら語ることができる。
外部に手助けをしてもらうことはあっても、依存することはなく、
内面的に成長しており、しっかりと自立している。

この「教わる」と「学ぶ」の違いは、反面教師を例にすればわかりやすいと思う。
反面教師とは、悪い教えや行いをもとにして逆に正しいことを学ぶことだ。
悪い教えや行いはあくまで悪いものでしかない。
そこから直接的に「教わる」ことはないかもしれない。

しかし、じゃあなぜそれが悪いのか?という理由を問い、
じゃあどうすれば正しいのか?というところまで深く掘り下げ、
自ら正しいと思う答えを探し出すことで、はじめてそれが「学び」に変わる。
自ら学ぶ人は良いことも悪いことも、あらゆる縁をそのまま学びに変えることができる。

逆に教わる人というのは、自分で判断ができない上、外部に依存する習性があるため、
信頼していた人が過ちを犯してもその過ちに気がつかず、
悪い教えや行いに流されてそのままついて行ってしまい、
自分もそうなってしまって同じ過ちを犯してしまう場合が多い。
そうなれば周囲の人や世間にまで迷惑をかけることになる。
この「教わる」と「学ぶ」の違いがいかに重要であり、
自ら学ぶ意識というのがいかに大切なものかは明白である。


できる人とできない人の違い

仕事においても、どの企業にも仕事のできる人とできない人がいると思う。
では彼らの違いはなんだろう?と考えた時、
それは特別な才能や能力の差ではないと、わたしはある時気がついた。
「できる人」はどこへ行っても何をやらせてもできる場合が多いし、
「できない人」はどこへ行っても何をやらせてもできない場合が多い。
ではその違いはどこにあるかと言うと、結局は「教わる人」と「学ぶ人」の違いではなかろうか。

仕事のできる人は大体「学ぶ人」にあたる。
仕事のマニュアルや、上司や先輩の仕事の仕方から、これはなぜこのようにするのか?
という理由をしっかりと理解した上で仕事に取り組む。
したがって、仮にマニュアルを奪われたとしても、自立して仕事を進めることができる。
仕事の流れや物事の原理を理解しているため、
仕事の仕方について自ら改善点を考えることができ、最善を尽くすことができるようになる。

そういった人は大体、自分の中にしっかりと目的意識を持っている。
そしてその志のもと、昨日の自分より常に一歩成長するために自発的に行動している。
だからどこへ行っても、環境が変わっても「できる人」と言われる。

仕事のできない人は大体「教わる人」にあたる。
仕事のマニュアルや、上司や先輩の仕事の仕方を、言われた通りにそのままやる。
なぜそのようにするのかはわからないが、それが決まりだから、言われたからやる。
したがって、仮にマニュアルを奪われたり、誰も教えてくれなくなった場合、
仕事の流れや物事の原理を理解していないため、自立して仕事を進めることができない。
仕事の仕方について自ら改善点を考えることができず、
同じミスを繰り返したり、別のことをやる時に適応できなくなる。

そういった人は大体、自分の中にこれと言った目的意識がなく、
ただなんとなく生きて、働かないといけないから働き、
与えられた仕事をやらないといけないから言われるがままにやっている。
だからどこへ行っても、環境が変わっても「できない人」と言われる。

できる人というのは別に特別な才能があるわけでも、特別なことをしているわけでもなく、
目的意識に基づいて筋道を明確にし、目の前の問題を一つずつ解決していき、
コツコツと一歩ずつ確実に歩んでいるだけに過ぎない。
当たり前のことを当たり前にこなしているだけ、という感覚である。
目的意識が明確なため、そのことに対して求道心と努力を惜しまない。
よくよく考えてみれば、目的意識がなければ向かう場所もなく、
その場足踏みをしているだけでは一歩も前へ進まないのは当然である。

できない人ほど「自分はできない人間だから」「自分は頑張っているのに何で」と、
自分で自分をあきらめたり、自分のやり方を疑うことを知らない。
「自分はあきらめてもいないし、ちゃんと試行錯誤しながら頑張っている。」
と言ったとしても、結局は自分でどこかでラインを引いているからそういう言葉が出るわけだ。
できる人はそんな愚痴を言うまでもなく、
「どうすればできるか」「今の頑張り方でだめなら頑張り方を変えてみよう」
と壁にぶち当たる度にまずは己を見つめ、自分の中に原因と解決策を見出す。

「できる人にはできない人の気持ちなんてわからない」なんて声をよく聞くが、
それはできる人に対する最大の侮辱であり、できない人の甘えでしかない。
できる人はそれだけのことをやってるからできるだけのことであって、
できない人はそれだけのことをやってないからできないだけのことだ。
要は「できる・できない」の問題ではなく、「やるか・やらないか」の問題である。
やるからできるのであり、やらないからできないだけの話なのだ。

言ってしまえばそれだけの単純な話なのだが、実践するのは難しい。
だから多くの人が悩み苦しむわけだが、厳しいかもしれないがそれが現実なのである。
それを受け止めて自らを変えようとしない限り、できない人は一生できない人で終わるだろう。
そんな人生が嫌なら、「やってるのにできない」なんて戯言を言う暇があったら、
まずは自分のやり方を見直すことからはじめよう。
人生はどこまでもその繰り返しなのだ。真の成長はその謙虚な姿勢と努力の中にしかないのだ。

したがって、そういった共に学び歩む姿勢のない人「に」いくら教えても人は成長しない。
また同様に、共に学び歩む姿勢のない人「が」いくら教えても人は成長しない。
そこにあるのは依存と怠慢。つまり「教える人」と「教わる人」の関係の中に真の成長はない。
学ぶ姿勢のない人にいくら教えても無駄だし、学ぶ姿勢のない人がいくら教えても無駄なのだ。

一時的な成長や表面的な成長はあったとしても、本質的な自立・成長と信頼関係は築けない。
共に学ぶ姿勢のある人だけが自らも学び、人にも学びを与えることができ、互いに成長し合う関係性を築ける。
人材育成において最も陥りやすく、気がつきにくい大きな落とし穴はそこにある。
多くの教育者や経営者が人材育成に悩み、組織が衰退していく原因はここにある。

真の人材育成とは、己の意識改革にある。一人一人が自分自身の意識を変えることだ。
教わる人を学ぶ人へと変えるためには、まず自分が率先して変わらなくてはならない。
相手を変えようとするのではなく、まずは自らが教える人から学ぶ人に変わる。
育てようとするのではなく、自らの学びに巻き込んで一緒に学ぶ。
そうやって共に学んで行く中で、自然とその「学ぶ姿勢」が互いに身についていく。

子供や部下や後輩が思うように動いてくれないのは相手のせいじゃない。
相手のために厳しくするのと、相手が自分の思い通りに動いてくれないから怒るのは根本的に違う。
その違いに気づき、共に学び歩むという相互成長の関係性を組織として築けていない、
信頼関係を築けていない自分の責任を自覚することが「真の人材育成の第一歩」である。
各々が自発性を高め、自考自立する力を養うことが人材育成の肝要である。
自らが率先して一歩を踏み出し、背中で語る。共に学び、共に歩み、共に育つ模範となる。
結局のところ育つも育てるも、活かすも活かされるも、
「人生は永遠に学びだ」という己の謙虚な姿勢と行動に終始するのである。