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恋と愛と執着、真実の愛とは

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世の中、恋と愛の違い、愛と執着の違いを理屈ではなく、
きちんと自身の体験として体得し、理解している人がどれほどいるだろうか?
多くの人が恋や執着に溺れ、真実の愛を知らぬがゆえに苦しんでいるように思える。
結婚生活に苦しみ、夫婦関係、親子関係に苦しむ人が後を絶たないのはなぜか。
その根本的原因はそこにあるのではなかろうか。
恋や執着を愛だと勘違いしたまま突き抜けると、それは純愛ではなく狂気になる。
恋と愛と執着は複雑に絡み合い、常に紙一重であるがゆえに難しいのである。

恋と愛の違いについて、わかりやすく説かれているサイトがあったのでついでに紹介しておく。
「恋と愛の違い9つ」

我々人間にとって、恋と愛は避けては通れぬ道だ。
人は一人では生きていけない。自分が生まれたのも親という縁があってのものである。
誰かを求め、誰かに求められることを本能的に欲する中で縁を持ちながら生きている。
それは異性交際にしろ、家族関係にしろ、生物として必ず通る道である。

多くの場合は結婚への入り口として、まず恋があるわけだが、
恋とは辛いことの方が多いものだ。
わたしは恋は愛を知るための試練であると思っている。

純愛とは、ただ一心に相手の幸せを思い、それがそのまま自分の幸せにもなることである。
それが相思相愛でなくとも、相手の思いの対象が例え自分ではなくても、
心から応援することができるのが本物の愛であり、優しさであり、強さではなかろうか。
意図的にその対象を自分に向けさせようとするのは愛ではなく欲望である。
人は本当の愛を知らぬがゆえに、欲望を包み隠した上辺の愛に騙され苦しむ。

恋愛において、純愛を貫き通すのは辛く苦しいことである。
特に片思いの叶わぬ思いを愛として貫くのは困難を極める。
あきらめて逃げるのは簡単だが、思いが強いほど避けても抑えきれない。
避けても思いが消えずに惹かれるがゆえに難しいのだ。
そこで自分の中で欲望と純愛、恋と愛の闘いが競い起こる。
相手を思う気持ちと、相手に思われたい気持ちが渦巻く。
恋(欲望)に破れそうになる自分との闘いなのだ。
恋に破れてしまえば欲望や狂気に堕ち、愛を見失い相手を傷つけてしまう。
恋愛とは、そんな紙一重の葛藤との闘いなのである。


千年メダル / THE HIGH-LOWS 歌詞

スケアクロウ / the pillows 歌詞

世の中、男も女も多くの人が恋に溺れて愛を知らず、愛に飢えているように思える。
女のケツばかり追いかけ、女を落とすテクニックばかり磨いて中身を磨かない男。
そしてその上っ面のテクニックにキャーキャー言って踊らされる女。
男の目ばかり気にし、外見ばかり必死に磨いて中身を磨かない女。
そしてその美貌の虜になり、女に媚びて威厳を失い、都合の良い男に成り下がる男。
そんな外見や上っ面のテクニックに振り回され、自慢や愚痴が飛び交い、本当に大切なものを見失い、
男女の愛は乱れ、親子の愛も乱れ、教育が腐っていく。

男は口先ではなく背中で語れ。
女は男の背中に惚れろ。
愛は言葉ではない。現実の行動の中にある。
その芯たる心を見誤るな。

異性と付き合う際には表面的なものにとらわれず、
ただ一心に自分を磨き、また相手の心の内を見つめる姿勢が大切だとわたしは思う。
その笑顔や悲しい顔の裏に何を抱えているのか、相手は自分の何を見つめているのか、
その顔の裏にあるのは愛か欲望か、どんな思いを秘めているのか―。
どんなに上っ面の言葉やテクニックで誤魔化そうとも、心は必ず些細な行動の中に表れる。

そんな内に秘めた思いを見極めることのできる目と心を養うために己を磨く。
上辺の愛に騙されず、純愛を貫き、また相手のそれに応えられる男になりたいものだ。
そして世の女性達もそんな男の内に秘めた心がわかる女性になって頂きたい。
つまらん男に引っかかっては愚痴ばかりこぼすような愚か者にはなって欲しくない。
男の愚痴を漏らすというのは、自分に見る目のなさを披露しているようなものだ。
それが恥じるべき愚かな行為だと気づくべきである。

文句があるなら本人に言えば良い。
それができないから陰で愚痴を言う、なんとも愚かなことか。
そんな男なら別れれば良いものを、執着して別れられないのが己の弱さ。
男は男でヤレればそれで良いとでも思っているのだろう。
そしてその武勇伝を自慢げに語るのだ。それは相手の女性の品格を下げる行為だ。

女が愚痴大会をしているように、男は自慢大会をしているのだ。
そうやってお互いの欲を満たすために依存し合い、誤魔化し合うのが恋。
本当に相手のことを思っている人は、
公でパートナーの愚痴をこぼしたり、品格を下げたりしない。

相手を大切に思うから、その人の周りの人も大切にするのが愛。
相手は大切に思うが、その人の周りの人は知らないというのが恋。
愛は無限に包み込む優しさ。恋は個人への執着である。
性欲や金欲などの欲を満たすためや、寂しさを紛らわしたり、
自分に足りないものを補うために相手に依存している。
それらの欲に振り回されるのが恋であり、人はその恋の中で真実の愛とは何かを掴んでいく。
ゆえに恋とは愛を知るための試練なのである。

恋愛の中で愛に気づかず、恋に破れ、己の弱さに破れ、
真実の愛を知らないまま恋に恋し、相手に依存しながら生きる人は、
きっと結婚して家庭を持っても上手くいかないだろう。
恋に恋する人は己の弱さに目を背け、それを補うために何かに依存しながら生きている。
ゆえに真に己と向き合わない限り、愛を知らず恋に苦しみ続けるであろう。

そしてこれは何も恋愛のみならず、親子の執着も同じである。
親が愛と我欲をはき違え、子供を自分の思い通りにしようと我が子に歪んだ愛を注ぐと子を苦しませる。
いつまで経っても子離れできない親というのは、己の弱さを子に補わせようとする。
ゆえに我が子を自分の「物」のように教育し、子の主体性を尊重せずに縛りつける。

子には子の人生があるのだ。
それなのに、子が己の人生を歩もうとするのを、親が邪魔する。
親が自立できていないがゆえに子の自立を妨げ、親の罪滅ぼしのような人生を歩ませようとする。
そんなものは愛でも教育でも何でもない。

もちろん、その逆も同様である。親離れできない子も同じことだ。
しかし多くの場合、親離れできない子というのは親が子離れできておらず、
子のやりたいこと、やることにいちいち口を挟み、
あーしろこーしろ、あーじゃないこーじゃないと干渉しすぎているのが原因であろう。
そうやって自分を押し殺して親に従うことで、親がいないと何もできない人間になってしまう。

理想のパートナーとは、互いが自立し、求め合うのではなく支え合う。
互いが己と真に向き合い、相手に求めたり、相手を責めたりせず、
追いもせず、追われもせず、サッと隣について同じ方向を向いて並走する。
言わば人生の目的を同じくして共に歩む「人生のパートナー」である。
時には手を差し伸べ、時には背中を押し、手を取り合って助け合いながら共に進む。
相互の自立と支え合い、助け合いこそ真実の愛、純愛であり、本当の絆ではなかろうか。


リンダ リンダ / THE BLUE HEARTS 歌詞

パトリシア / the pillows 歌詞